
観音堂の左手奥にある147段の石段を登ると、御神木のスダジイをはじめ老木が生い茂る中に「飯縄大権現」を祀る権現堂本殿が築かれています。
拝殿は間口四間奥行三間、本殿は一間四面の小規模な造りながら、精巧な斗栱や彫刻が施された見事な権現造りで、建立当初の姿を残す貴重な建築物です。
本殿に祀られる飯縄大権現の尊像は、火焔を背負い翼ある姿で白狐に乗り、不動明王の顔立ちをしているのが特徴です。
『武田信玄公に篤く尊信せられており、当山栄隆を計らんがため信州・飯綱山より持ち来たりて奉祀せらる』と伝えられています。
古くは戦いの神として、後に火伏せの神、農耕の神、特に養蚕の神として信仰され、1月14日の初飯縄祭には繭玉が奉納されてきました。
現在では、諸願成就の神仏として地域の人々の信仰を集めています。
※ 毎年1月14日 御開扉
暦応2年(1339年)に制作された鰐口で、神奈川県内では現存する最古のものとされ、昭和44年(1969年)に県の重要文化財に指定されました。
全体的に繊細で整った造形が特徴で、両面がふっくらと盛り上がった厚みのある形状をしています。上部の両肩には半円形の吊り金具が付けられており、当時の鋳造技術を今に伝えています。
かつては観音堂の向拝に吊るされ、参拝の際に打ち鳴らされていた、歴史的にも貴重な文化財です。
昭和59年(1984年)11月、普門寺の境内から11基の板碑が発掘されました。元応2年(1320年)から文亀2年(1502年)にかけて造られたもので、青石塔婆とも呼ばれています。主に秩父地方で産出される緑泥片岩が用いられています。
板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造られ、関東や東北地方に広く分布しています。普門寺周辺では発見例が少なく、これらの板碑は、当時から普門寺が重要な信仰の場であったことを物語っています。
【お舎利さま】
宝暦3年(1753年)、川尻村小松に生まれた行者が、34歳の時に普門寺の法印快誉と約束を交わし、土中で断食と念仏を続けながら入定したと伝えられています。
飯縄社へ続く石段の左側には、2基の石灯籠を備えた祠があり、「お舎利さま」と呼ばれる石造阿弥陀如来坐像が祀られています。かつては裏山の「おしゃり山」にありましたが、大正6年(1917年)に現在の場所へ移されました。
【宝篋印塔】
仁王門を入って左側に建つ2基の宝篋印塔のうち、右側の1基は「天保御用金事件」の犠牲者供養塔と伝えられています。
天保2年(1831年)、飢饉や幕府の財政悪化が続く中、上川尻村に課せられた御用金をめぐり、領主の用人と名主による不正が発覚しました。村人たちは翌年、幕府に直接訴え出ましたが、関係者は捕らえられ、牢内で伝染病にかかり、事件の解決を見ずに亡くなりました。
その後も村内の対立は続きましたが、弘化2年(1845年)にようやく和解が成立。同年3月、犠牲者の冥福を祈って宝篋印塔が建立され、明治維新まで毎年3月28日に供養が行われたと伝えられています。
【童謡「夕焼け小焼け」山のお寺の鐘について】
普門寺にはかつて仁王門の脇に鐘楼堂がありました。しかし戦時中に供出され、残された建物も伊勢湾台風により倒壊、今では石積だけが残されています。かつてあった鐘楼堂に関するエピソードの一つが近年知られることとなりました。
童謡「夕焼け小焼け」の作詞者・中村雨紅の生家は八王子市上恩方町にあり、童謡のモデルの地としては上恩方町が有名です。
しかし曲を発表した当時は、相模原に隣接する町田市相原町・中村家に養子として暮らしていました。そのことから、「夕焼け小焼け」の舞台は相原町であることが想定され、地域では調査が進められました。
調査の中で、「当時、普門寺の鐘の音が中相原地区までよく聞こえていた」とのことが分かりました。
かつて普門寺にあった鐘の音こそが、雨紅が歌詞にした「山のお寺の鐘」だったのかもしれません。
真相のほどは定かではありませんが、今も残る石積に夕日が差しかかる頃、「夕焼け小焼け」の歌詞を思うと、戦前の里山の情景がよみがえります。
【草競馬】
毎年4月14日の例大祭には、桜が咲き誇る普門寺の境内で、法要に続き近隣の農耕馬による草競馬が催されていました。
かつては直線の馬場でしたが、昭和14年(1939年)、二代前の住職・亮彦によって周回できる馬場に整備されました。一等には優勝旗が贈られ、戦時中も檀信徒の協力によって続けられました。
しかし、戦後は農耕馬が減少し、昭和22年(1947年)4月14日の開催を最後に、その歴史に幕を下ろしました。現在も境内の一段下に残る道路に、当時の馬場の面影を見ることができます。
【集団疎開と防空壕】
昭和19年(1944年)、戦争の激化に伴い、横浜市などの児童が津久井郡(現在の相模原市緑区)へ集団疎開しました。普門寺でも46名の児童を受け入れ、本堂で教師たちとともに生活を送っていました。
当時の記録には、境内で焚き火を囲んで歌を歌う子どもたちの様子や、夜になると寂しさから泣き出す子どもがいたことなどが伝えられています。
観音堂の裏には、今も防空壕跡地が残されており、戦争の歴史と平和の大切さを静かに伝えています。
山本秀順和上について
髙尾山薬王院 第三十一世貫首 山本秀順大僧正 明治44年~平成8年
普門寺には、後に高尾山薬王院の御貫首となられる山本秀順和上が住職を務めた時期がありました。
昭和12年、26歳の若さで普門寺の住職に就任しましたが、学生時代に信仰仏教青年同盟の活動に参加し、機関誌に戦争反対の一文を投稿したことが問題となり巣鴨拘置所に450日間収監されました。そのため、普門寺に実際に在住していたのはほんの2~3ヵ月だったようです。
のちに、当時の事件について秀順和上は、「仏教の戒律、その第一にあたる不殺生戒、このことを戦争するという行為の中で、僧侶として如何に対処すべきか、ただ、そのことを私は真剣に考えた。でもそういうことを考えることは、結果としては国賊と呼ばれてしまう時代だったのだ。」と語られ、また、「釈放されるまでの450日間、世間から隔絶されたその歳月は、今思うとき、それは苦痛というよりは、むしろ大変な修行の場をいただき、信仰ということをじっくりと考えさせられたありがたい仏縁の日々であり、今は大変に感謝している。」と振り返りました。
【略歴】
貫首を務めた40年の間には、一山の僧俗を率先垂範し、多くの弟子を薫陶。仏舎利塔の奉安をはじめとして仁王門の再建、本堂の拡張など次々と境内の整備に着手。自身は戒律に即して生活を調え、清貧な生活を送った。
自然界に対する造詣が深く、あらゆる生命を尊ぶ「禽獣草木悉有仏性」の立場から髙尾山を「殺生禁断」の地とし、時代に先駆け自然を破壊する行為に反対。また、「明治の森高尾」の国定公園化に取り組み、暖帯林と温帯林が共存する高尾山の貴重な自然保護の先駆者となり、年間約300万人の参拝者・登山者が訪れる霊山・髙尾山の基盤を築く。
また、ラジオやテレビ、講演会などをとおし、仏教を平易な言葉で語り掛け、『 昭和の名僧』として世に広く知られた。